2023年2月23日木曜日

古石神井川と将門塚

(長文で恐縮です)

石神井(しゃくじい)川は現在、王子駅の北東で隅田川に注いでいます。縄文時代の話ですが、1万年前、王子より南へ流れ、不忍池(しのばずのいけ)、神田お玉が池、銀座への流れが有ったそうで、「古石神井川」と呼ばれています。この川はその後の海面上昇で下流部が一旦消滅しました。以後、山からの堆積物や人による埋め立てなどで、今の東京の姿に至っています。

天皇陛下様のお誕生日の2月23日はまず、台東区の不忍池へ行きました。初っ端(しょっぱな)より御徒町(おかちまち)に水路が有った証拠を目にしました。下町風俗資料館の隣に上野広小路遺跡三橋遺構が展示されています。江戸時代に不忍池から忍川が東へ流れ、鳥越を経て、隅田川へ注いでいたそうです。古石神井川は今のJRの線路の東で東へと南への流れに分かれていたそうです。川の跡かなぁと思いながら、南の秋葉原へ歩きました。

神田川の秋葉原に入り江が有って、その横に鉄道と貨物駅が作られ、水運と鉄道の結節点となり、秋葉原が発展しました。その入り江は昭和30年代に埋め立てられ、今は千代田区の秋葉原公園と和泉(いずみ)橋出張所が有ります。私はこの入り江が古石神井川の跡であることを今回知りました。

神田の辺りは私のふるさとであり、母校の千桜(ちざくら)小学校跡、今川中学校跡へ寄り道しました。神田お玉が池跡にはお玉が池児童遊園や銭湯の於玉(おたま)湯などが有りますが、池の痕跡は見い出せませんでした。

中央区の十思(じゅっし)公園には江戸に時を告げていた鐘の1つである石町(こくちょう)時の鐘や吉田松陰先生終焉(しゅうえん)の地碑が有ります。この辺りは伝馬町(でんまちょう)牢屋敷跡です。べったら市の宝田恵比寿神社と椙森(すぎのもり)神社へお参りしました。その東の人形町には元吉原の遊郭(ゆうかく)が有ったそうです。堀留(ほりどめ)町に有った東堀留川、西堀留川は昭和の頃、順次埋め立てられたそうですが、これらも古石神井川の跡だそうです。

安土桃山時代までこの南は海であり、江戸時代に埋め立てられ、茅場町(かやばちょう)、八丁堀となり、古石神井川跡は楓(かえで)川となりました。その川底を今、首都高が走っています。この景色が縄文時代の川の跡だと知ると、それなりに絶景だと思いました。

後半は、大手町の将門塚へ行きました。地図を見ていて、将門塚に江戸の各街道が繋がっているような気がしました。

将門塚に平将門(たいらのまさかど)公の遺骨などが埋まっているという情報は無く、ここが平将門公とどういう関係が有るのか分かりません。住民が長らく将門公の怨霊(おんりょう)に苦しめられていて、時宗の僧が徳治2年(1307年)に板碑を建立したのがこの将門塚だそうです。その後の長禄(ちょうろく)元年(1457年)に太田道灌(どうかん)公が江戸城を築城したそうです。将門塚へお参りし、辺りを見ると、ほぼ隣接するように江戸城の大手門が見えました。大手門の鬼門の方角、北東に将門塚が位置しています。徳川家康公の側近の僧、天海(てんかい)様が平将門公の力を借りようとしたと言われています。

将門塚の東に読売新聞社が有り、ここが箱根駅伝のスタート地点。日比谷通りであり、東海道に繋がっており、桜田門で西へ行けば、国道20号線です。北東の常磐橋を渡ると、京葉道路、水戸街道、国道4号線へ行けます。

日比谷通りと本郷通りは1本の通りとなっています。私は本郷通りを北へ歩きました。須田町の交通博物館跡近くに筋違(すじちがい)門跡の標識が有ります。将軍様はここを通り、上野寛永寺や日光東照宮へ向かったそうです。今はJR中央線のレンガ壁に塞がれていますが、万世橋と昌平橋の中間に筋違橋が架かっていたそうです。

神田川を渡ると、湯島聖堂が有ります。国道17号線を歩きました。本郷三丁目で西が国道254号線で、川越へ行けます。東大農学部前で西が国道17号線の中山道(なかせんどう)であり、ここで国道17号線の方が狭くなっています。北へ行く都道455線が日光御成道(おなりみち)、岩槻街道であり、広幅員です。駒込で柳沢吉保公が築いた六義園(りくぎえん)が有ることを確認し、駒込駅より帰途に就きました。

この日、私は兜町、日銀、皇居を目にしました。まさに日本の中枢部です。古石神井川と将門塚が東京の骨格となっています。古きを知るのは楽しい。



































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